ポップかロックか。

ポップかロックか。

ポップなものがすきなのか、ロックなものが好きなのか。

いや、ポップでロックなものも全然ある。あるある。たぶんある。
でも、あえての二元論。二項対立。超抽象的だけど。


ボクはポップなものが好み。軽くて気取らないイメージ。
だからなんだというわけではないけれど。

ポップかロックか。

ポップってのは、popular、大衆文化的というか、一般大衆向けに近い。
すそのは広そう。カジュアルな感じ。かといって、古臭いベタなもを指すのではなくて、
それはあくまでも新しくて斬新なもの。時代を切り取る感じ。ポジティブで明るく、
決して、守りに入った保守的なものという意味じゃないと思う。

いや、本当の意味は知らないよ、あくまで、個人的な解釈。


ロックってのは、対抗文化というか、反体制的というか、
ある種のアウトロー感というか、はみ出しもの的な印象としての、
何か既存の存在に対してのカウンター的な意味あい。
仮に、大衆とか時代に則してなくても、それはそれでいい、というような印象。
軽々しくないイメージ。何か信念を貫くような、時にはネガティブで暗く、重厚感のあるイメージ。

いや、本当の意味は知らないよ、あくまで、個人的な解釈。



独創的なもの、というなかにも、
独創的でポップなもの、独創的でロックなもの、
どっちもあるような気がするし、
最初から白か黒か、ポップかロックか、なんていう、
対立軸自体間違っているのかもしれないけど、


とにかく、自分は、

ポップ志向なのか、ロック志向なのか、
一応、強引に自分なりの軸で分けて考えたときには、
何となく、ポップ志向なんだよな、と。

音楽にせよ、ファッションにせよ、カルチャー全般そう。


特にはっきりとした結論はないし、
前提条件自体、曖昧で勘違いかもしれないんだけど。


ロックな生き方に憧れるのか、
ポップな生き方に憧れるのか、とかね。


ロックな生き方ってのはある種、
後ろ指刺されてでも推し進めないと成し遂げられない重いイメージがあって、
独立独歩というか。先天的能力とカリスマ性が色濃くある感じ。

自分はそんなに強くないな、と。そういう気がするわけで。


ポップな生き方ってのは、
家族や日常生活や、そういうベースラインは侵さず、
他人との調和をもちながら、軽くて気取らず、
でも、鋭く、流行の先端をとらえながら、というイメージなのかな。

勝手な解釈。


あまりにも漠然とした話なんだけども、
お前はどう思う?って、親しい友人には一度きいてみたいな。

こどものころのゆめ。

ドラクエの話。


小学校の頃、
ドラクエは、まさにボクたち男の子の間で大ブームで、
毎日のようにドラクエの話しをしてました。

鉛筆とか筆箱とか、
それこそドラクエのキャラクターの入ってた文房具なんかも、
持ってたような気がします。

そんな中、テレビゲームと同時に、
ゲームブック」というものが流行ったことがありました。



これは、小説の中に、

「たたかうなら○○ページへ、逃げるなら○○ページへ」

みたいな指示が書いてあって、
その指示どおりにページに飛んで読み進めると、
その、じぶんの選択したストーリーで物語が展開していく、というようなもの。。


上手くいけばストーリーが進むし、ダメな選択肢を選んでしまえば、
○○ページに戻ってやり直しなさい、みたいなことが書いてある。





ドラクエゲームブックも大好きだった僕は、
同じくゲームが大好きだった友達の一人、クラスで一番絵が上手なサナダ君を誘って、
一緒にオリジナルのゲームブックを作ることにしました。


「ボクが物語を考えるから、サナダ君はアイテムとかキャラクターを考えてよ」
・・・そんな感じ。二人の中ではもう、ほりいゆうじととりやまあきらの気分です。。

二人で一冊ノートを用意して、
「まずタイトルはどうしようか」なんて話しながら。。。



当時、たしかドラクエは3までしか出てなかった頃だったと思うんだけど、

そのノートの表紙にデカデカと、二人のゲームクリエイターは「ドラゴンクエスト4 ゲームブック」と書きました。


小学生ながらに、二人でシナリオライターとキャラクターデザインに分かれて作業をしはじめたわけです。



・・・


結局、


十数ページくらい書いたところで、
ストーリーの続きを考えることよりも、
(そもそもゲームブックって結構複雑に作られてるから、小学生の能力ではなかなか骨の折れることだったりもして)


二人でキャラクターやアイテムを考えるのばっかりが楽しくなっちゃって、
それ以降、ストーリーは未完成のままだったんだけど、


まぁ、それも含めて子どもらしいといえば子どもらしいわけで。。


そんな感じで二人で盛り上がってた同時期にたずねられた、
「キミの将来の夢はなんですか」という問いに、
ボクは迷わず、「サナダくんと、ゲームが作りたいです」と書いたのを今でも覚えています。


子どものころの夢って、純粋で、でもどこか侮れなくて。。
今考えると、笑っちゃうくらい子どもっぽいんだけど、僕の中では結構大きかったりして。



少年ジャンプのライターさんからゲームのシナリオライターになった堀井さんや、
コピーライターをやりながらも、伝説のRPGを作っちゃった糸井さんや、



なんかそういう大人たちに今でも憧れとか尊敬の気持ちがあるのは、
子どもの頃のこんな体験からなんだろうなぁと、改めて思うのです。


・・・




ゲーム少年だった二人は、その後、
小・中・高と同じ学校に進みましたが、大学からはそれぞれ違う道に進み、

絵の上手だったキャラクターデザイン担当のサナダ君は、
小学校の美術の先生になり、

シナリオ担当だったボクは、
コピーライターを目指して広告代理店に入りました。








その後紆余曲折あって、


あの頃のゲーム少年は、
転職して、今、「商人」をやっています。

大丈夫です、という口癖。

いつも、気づいていながら治せない口癖がある。

「大丈夫です」というフレーズ。

例えば、コンビニのレジで、「レシート要りますか?」と言われて、
手を前に出して、横に振るようなジェスチャーをしながら、
「大丈夫です」と言ってしまう。

・・・何が大丈夫なのか。

「結構です」もしくは「要りません」が妥当なはず。



マックでご一緒にポテトはいかがですか、も同じ。
「いえ、大丈夫です」



美容室で、シャワーの温度どうですか?と言われて、
「あ、大丈夫です」




本当に「大丈夫です」を使わなきゃいけないのは、、、

例えば、
誰かに目上の人に、
着物の帯を背中の方で結んでもらっていて、

「あ、結構きつくしてるけど、つらくない?」

とか肩越しに後ろから言われた時に、

すかさず、

「大丈夫です!」

だ。


軍事訓練の時に、
独りでジャングルの中に寝泊まりして、
地べたをほふく前進で進んで、
途中、足を滑らして、崖から転落、
意識を取り戻したら、目の前に隊長の顔があって、

「おい、大丈夫か!おい!」

って言われて、

はじめて、

「だ、だいじょうぶ、、、です、隊長。。」


これが正しい「大丈夫」の使い方だ。


・・・



ま、とにかく、

間違った「大丈夫です」をちょっと違う言葉に置き換えてみようと思う。

意識して。

夢を見た。

R-1グランプリの予選に出場する夢をみた。

会場の8割は女性の観客。


「あぁ、これは絶対女性にウケるネタにしないといけないな」
と思いながら、それなりのネタを2〜3、頭の中に描きつつ、


どれにしようか、
自分の出番を待ちながら、必死で考える。


ボクの出番の、2つ前は、アンガールズの田中さん。


自分のネタのことを考えつつも、
2つ前のアンガールズ田中さんのネタが気になる。


袖からこっそり見てみる。


会場は大爆笑。
超絶面白い。

あぁ、これか、プロとアマチュアの差は・・・。


このR-1予選に参加することを決めたことを後悔した。

そして、アンガールズ田中さんに絶対的な敗北感を感じた。



そうこうしているうちに、次の人。
自分の出番の1つ前。


もはや誰でどんなネタをやってるのか、
全く耳に入ってこない。聞こえない。


「あぁ、なんでこんな予選に参加しちゃったんだろう、、、
 スベったらどうしよう、どうしよう、絶対無理だ、、帰りたい、帰りたい。」


頭の中で何度も思いながら、ついに、自分の名前が呼ばれてしまう。。



心臓が高鳴る。



・・・



と、ここで、目が覚めた。

どんなネタをしようとしてたのか、思い出そうとしても思い出せない。


けど、とにかく、


安堵感と、敗北感で、寝汗をびっしょりかいたので、
悔しいから、ここに、書き残しておこうと思う。

他人様のことはどうでもいい。

他人様のことはどうでもいい。
自分のことを考える。自分の家族のことを。


ちょうど、幼稚園に通う息子が、終業式を迎えて、春休みに入った。


幼稚園が休みになるということは、
母親が、家で、一日中、こどもの面倒をみなければならない、ということだ。


ましてや、ウチは昨年の11月に下の子が生まれたばっかりで、
おっぱいをあげなければすぐ泣き出すし、うんちはするし、だっこしないと泣きやまないし、で、


幼稚園が休みの上の子も面倒をみるとなると、なかなか骨が折れる。はずだ。


どうにか、おもちゃやテレビアニメに集中させて、
空いた時間で、引き続き下の子の世話、家事全般をこなさなきゃならない。


と、
こんなことを、普段全くやってない夫が書いても、怒られてしまいそうなのだが、
実際、たぶん、そうなのだ。


だから、


出来る限り、自分が早めに帰れたときは、
こどもをお風呂に入れてやったり、せめて、食器を洗ってあげたり、する。



そこへきて、この地震

まだ続く、余震。


もし、今、


関西圏に身寄りがあれば、
ふるさとがあるならば、


おそらく、春休みの一ヶ月くらい、こどもと3人で行って来たらどうだろうか、と、自然に考える。


東京から逃げるとか、どうとか、そういうことじゃない。



ただでさえ、
毎日毎日、どれだけ疲れてても、


夜中、こどもが泣き出したら寝てても起こされる、嫁が、


余震にびくびくしながら、
今でも少ない睡眠時間をさらに、削っている。


多少贅沢でも、地震の無いところで、過ごさせたい。もちろん、こどもも、怖がらないように。。


他人様のことはどうでもいい。


東京から離れようとする子供連れの気持ちも、
こどもの紙おむつを、いつもよりちょびっと余計にスーパーで買っておきたい気持ちも、


たぶん、それぞれ理由がある。


人それぞれが心のなかで家族のことを想い、
それぞれの理由のもと、行動すればよい。



なんとなく、そんなことを思う。


これを自己中心的な考え方だと、非難するなら、すればいいさ。


私は、


自分のことを考える。自分の家族のことを。

読書感想文。

 
きことわ、読了。

夢の話。女の子の話。生と死の話。ノスタルジー。記憶。歴史。世界。

このモヤモヤした感覚、これが文学なんだ、とかいわれればそうなのかもしれないけれど、

これがどうにも、気持ちいいときと、そうでないときとあるから、
だから、あぁ、私はあんまり小説を読んでこなかったのかもしれない。とも思う。


モヤーっとした雰囲気を「分かった気になる」のは簡単だけど、何かそれもそれで違う。
一つ一つのレトリックの秀逸さにクローズアップして、これはすぐれた作品だ、とかいうのも、何か違う。

淡々としてる物語にさえ、強引に評価軸を立てて、それをもとに、善し悪し、って言うのも、あんまりすきじゃない。

腑に落ちない。



自慢じゃないけど、子供のころから「こくご」は得意だった。

かつて、学習塾や入学試験で受けた現代文のテストの成績はすこぶるよかったけど、
説明文や論説文では間違えないのに、なぜか、小説を題材に設問が作られていると、
よく、間違えていた。


悔しかった。。


そんなことをふと思い出す。


90分や120分のテストで、一つも題材に小説が出てこない試験も多かったので、
テストが始まって、設問を最後までばーっとみて、小説が入ってると、


「あぁ、嫌だな」


と思ったのをすごく覚えている。

できることなら、入学試験のテストには小説が出ませんように、、、って。



その時に、子供ながらに感じていた疑問、、、


「小説で描かれている心情や作者の意図に、マルバツで判断できる正解などあるの?」ということ。



深読みすればするほど、テストでは間違いに近付いていく。
だから、何となく、テストのときに意識していたことといえば、


「深読みしない」ということ。


「この問題を、小学校6年生が、中学3年生が、目にしたとして、素直に素直に受け取って、答えとして
導かれる、一番妥当性の高い選択肢を選ぶ」ということ。


周りも何となくそうだったと思う。


よく、テストの鉄則として、「問題を作成している人間の意図を意識しなさい」と言われることがある。
それは、そのとおりだと思う。自分の独自の解釈や感性は、テストでは全く必要ないからだ。


そして、意識的にその取捨選択を行わないと、物語への「主観的解釈」が邪魔をする。


一方、論説文や説明文ははっきりと文章に「ロジック」があるので、
小説に抱くような、独自の解釈や、主観は生まれる余地がないので、楽だった。


その選択肢が「正解だ」という、客観的論拠がある。


論説文を題材にした問題で答え合わせして、間違っていたとしても、なぜ間違ったのかは、すぐにわかった。
そして、納得がいった。


が、小説を題材にした設問の「正解」には、納得がいかないことも多かった。
納得できずに、先生に「なぜ、こちらの選択肢は間違っていると言いきれるのか」を、
聞きに行ったこともあった。


深読みすればするほど、

「いや、でもこれはこの表現の逆のことを実は伝えたいんじゃないか」とか、

「正解は2番っぽいけど、こんな単純な読み方をして、何が面白いのか」とか、

「この情景描写はあたかもポジティブな心情の表れとして描いているようで、
実はネガティブさを隠すためのものじゃないか」とか、なんとか。。


結局、フィクションの楽しみ方って、
多面性を持った表現部分をどう解釈するか、みたいなところに面白さがって、


マルバツの世界では、おそらくこういう楽しみ方は枷になるのだろう、ということも、
幼いながらに重々理解していながら、


それでも悔しさが残った。。。


そんな子供のころの体験が、私を小説から遠ざけていたのではないか、と、今になって思う。






設問4
この「きことわ」に対する感想として、もっとも正しいと思うものにマルをつけなさい。


1.生と死、夢と現実、すべては、地球の長い長い歴史に渦の中にあり、
一つ一つは曖昧模糊として、不安定で、絡みあっているということを伝えたいんだなぁ。


2.貴子と永遠子の二人のノスタルジーを、逗子や葉山の風景とともに、爽やかに描き出していて、
心地よい読後感があるなぁ。


3.時折現れる、黒い闇。貴子の出生について。これが夢なのか現実なのか。
そこが最後まで曖昧なまま分からないところに、不安定さを感じ、そこへの消化不良感からか、
この主人公二人に、文字通りの「幸せ」の時間が流れている気がしないなぁ。


4.淡々とした中にも、ときおり、焦燥感にかられて、どんどん先が読みたくなる部分もあるんだけど、
意図的に出てくる「ひらがな」の多様にもなじめないし、賢そうな難しい漢字もたくさん出てくるし、
伏線っぽいものはいくつかあるけど、回収しきらないし、なんだか、手放しで「面白い」と言えない感じだなぁ。


感想って、すごく難しい。

なぜなら、これは私の苦手な「小説」だから。

あるものとないもの

宮崎駿      にはあって 黒澤明    にはない
鳥山明      にはあって 井上雄彦   にはない
坂本龍一     にはあって 小室哲哉   にはない
すぎやまこういち にはあって 植松伸夫   にはない
庵野秀明     にはあって 富野由悠季  にはない
岩井俊二     にはあって 黒沢清    にはない
高橋留美子    にはあって 矢沢あい   にはない
宮本茂      にはあって 中裕司    にはない
伊集院光     にはあって 太田光    にはない
松本人志     にはあって 島田紳助   にはない
小山田圭吾    にはあって 小沢健二   にはない
糸井重里     にはあって 仲畑貴志   にはない
木梨憲武     にはあって 石橋貴明   にはない
桜井和寿     にはあって 桑田佳祐   にはない
三谷幸喜     にはあって つかこうへい にはない
藤井フミヤ    にはあって 福山雅治   にはない
秋元康      にはあって つんく    にはない
志村けん     にはあって 明石家さんま にはない

クイズではありません。