二次元なのか三次元なのか

文学少年・少女と呼ばれる、読み巧者の人たちは、
小説の主人公を、「どんな顔・姿で想像して読んでるのか」、ということが気になる。

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先日、悪の教典の上下巻を読んだ。


これを純文学と呼ぶのか、ミステリー、SF、ライトノベル、、、
どういうふうにカテゴライズするのかはよくわからないけど、


この作品にかぎらず、
最近の小説、特にラノベ・SF的なものと純文学的なものをを雑多に読んでて少し困るのは、
「頭の中で情景を浮かべたり、主人公達のすがたかたちを思い浮かべるときに、
それを、デフォルメした二次元として浮かべるか、リアリティのある生身の三次元の人間として浮かべるか」


どっちなんだ、ということ。


没頭しているときは、
二次元だか三次元だか意識もせずに熱中して読んでるんだけど、
ふと、冷静になってみると、主人公の顔は、どっちで想像してるんだろう、みたいな。
自分でもよくわからない。


悪の教典は学校・学生が出てくる話だから、
それこそ映画バトルロワイヤルや、告白、桐島部活〜、みたいな、リアルな感じでもいいし、
完全に学園モノのアニメや漫画だと思ってもいいし。


これって、日本人独特のものなのかな。


例えば、学生の頃、吉川英治三國志を読んだけど、
その時はどうだったんだろう、とか。


劉備関羽張飛の顔ってのは、たぶん、
漫画家・横山光輝のそれ、もしくは、
光栄の作り上げたそれ、だったりして。


でも、よく考えたら、諸葛孔明の顔は、それのどちらでもない感じで想像してる、かも、
どこの何から想像して思い浮かべてるんだろう、みたいな。
むしろ、孔明は神格化して捉えてて、具体的な姿形は思い浮かべてないのか、とか。


なんか、そんなことを思いながら。


指輪物語ロード・オブ・ザ・リングだって、
ドワーフとかエルフとか言われて思い浮かべるのは、
今は映画で観たキャラクターを思い浮かべるな、とか。


もっといえば、昔ばなし「ももたろう」を読んでるときに、
思い浮かべる絵、ってのは、紙芝居や絵本でみた、ももたろうと、オニ、だよな、とか。


そう考えると、漫画絵、というものはやっぱりパワーがあって。。


アニメ・まどか☆マギカはストーリーはとんでもなく重たいけど、
あの萌えアニメ的な絵、があって、あのアンバランス感が生まれるんだろうな、
とか・・。


ライトノベルや最近の小説に漫画絵(イラスト)が挿絵として書かれてることって、
こういう想像をいい意味でも悪い意味でもインスタントに解決するというか、
想像しやすくする効果があるのかな、とか。


でもそれって、小説の醍醐味である(はずの)ところの、
「読み手一人ひとりが自由に自分の頭の中で情景を(主人公の顔もふくめ)思い浮かべる」
みたいなことが、一つ損ねられてるのかな、とか。
想像力や読解力のトレーニングとしては、軽い方向、楽な方向、になってるのかなとか。


とりとめないけど、そんなことを思う。


悪の教典は、残念ながら、
伊藤英明の顔を半分頭の中でチラつかせながら、
でも100%は侵食されない感じで、読んだ。