わずらわしさの美徳。

自己分析するに、
私はどちらかというと物事を合理的に考えるのが好きなようだ。


何か計画を立てるときにも、
アバウトな部分はなるべく排除したいし、
できるだけ、事前に行程を把握したいほうだと思う。


また、可能であれば、
できるかぎり複数のタスクを同時に進めることに、快感を感じるほうだ。


例えば、初めて行った土地、場所では、
そこでのいわゆる「名所・見所」と言われるところに、
どうやったら効率的に回れるか、ということに注力する。


もちろん、行き当たりばったりで物事を行うことも無くはないが、
その結果、物事が上手く行ったとしても、
それは決して偶然にすぎないし、むしろ、助かった、
次はもっと準備して、より上手くいくように、、、などと思ってしまう。


要するに、負け戦をしたくない、
負けず嫌いからなんだろう、とも思う。



逆に、、、

だからこその、アンチテーゼというか、
自分なりのバランス感覚というか、


何か、ゆとりのある、情緒的な何か、


すなわち、
自分の合理的・効率的思考からすると、相反するような物事、


そういうものと対峙したときには、
より、意図的にそれを意識して、
「これは合理的・効率的な部分とは違う、情緒・ゆとりのベクトルのものなんだ、
それを謳歌しよう」


ともする。


例えば、年賀状。


私は年賀状が好きだ。


年賀状の制度が合理的、非合理的かなどという議論には、明確な答えが無いが、
このご時勢、年賀状を出す人が減っているのは間違いない。


新年の挨拶をする気持ちがあるなら、
それはメールでもかまわないかもしれないし、


そもそも、
新年の丁寧なご挨拶を、半ばクリスマス気分で12月25日までにシタタメテいる、
というのも、物事の本質からすると、それってどうなの?と思ってしまうところもある。
それはあたかも、新年の特番を12月前半に既に収録しているテレビ番組のように・・・。


また、
ポストには投函したものの、
果たして元旦に届くのか、実際はいつ届くか、
よくわからない、というのも、今のメール文化の中では異例のことに思えてしまう。


新年になったところで、
「今年もよろしく!」ってリアルタイムでメールするほうが、
本来の目的をかなえてるような気もしないでもない。


でも、

私は年賀状が好きなのだ。


なんだろう、
このわずらわしさに魅力を感じるし、


年賀状をしっかり元旦に届ける、


ということこそ、


差出人の現在の生活のゆとり


を感じさせるものではないか、
と、どこかで勝手に思っているところがある。


、、、何か表現が上手くないな。


ま、とにかく、年賀状が好きなんです。はい。
年賀状をしっかり出している人は、生活にゆとりがある、って思っちゃうんです。はい。


・・・



あ、そうそう、
まだ都心には雪は降ってないけど、
今日は全国的に雪模様。


子供の頃、、、


雪が降った朝、
カーテンを開けて、庭に積もった雪を見る瞬間、


あの時の、ざわっとするような気持ち、


また味わいたいなぁと思う。


雪って何なの?
雪って食べると冷たくて美味しい!

なぁんて言ってる頃のこと。


実は、雪は結晶化するとき大気中の微粒子を核としてて、
大気中の汚染物質を取り込んでいる可能性もあって、
本当はあんまり雪を食べないほうがいい。。。


なぁんてことを知る、もっともっと前の話。



雪、降らないかなぁ。